1月つくたま塾「埼玉の水の流れと人のかかわり方を追う」の報告

つくたま塾 2015年1月15日 19時~21時00分の記録

◎講師:藤原悌子さん(NPO法人水のフォルム理事長)

◎参加者:20名

◎タイトル:「埼玉の水の流れと人のかかわり方を追う」

配布資料:こちら(PDFファイル、553KB)

[講義の様子]

埼玉平野の古代から江戸時代末に至る形成過程を約1.5時間に縮めてお話をしていただいた。先生が調査・執筆の際に使用している年表と詳細な地図を縦横に駆使して、あっという間の時間が過ぎた。質疑応答もあり、先生の調査スタイルや最近の見沼田んぼ内での水循環をテーマにした米作りにも話題が広がった。埼玉の水みち確保には田を残していくことの重要性を認識した。

[講義の要点、キーワード的に紹介]

  • 埼玉の地形は、洪積世後半の100万~40万年前頃まで続いた地殻変動とその後1万年前頃までの荒川・利根川、渡良瀬川・思川による河川の運搬・堆積・浸食作用で骨格となる洪積台地が作られた。
  • 1万年前からの沖積世は温暖化の時代。5、6千年前をピークに海が内陸深く入り込み、河川の運搬・堆積作用で沖積低地ができた。
  • その後、関東造盆地運動による地殻・地盤の沈降運動が顕在化し、加須低地ができ、思川・渡良瀬川が流れていた埼玉東部低地に利根川・荒川も流れるようになる。
  • 豊かな森の恵みを享受していた縄文時代から、米作りを初めて弥生時代に移り、県内各地にその遺跡が分布するが、とくに大きな弥生遺跡はその後の条里水田とも重なる荒川新(熊谷)扇状地扇端の「熊谷行田遺跡」。それが稲荷山古墳を造ることになったと考えられ、荒川を挟んで東松山の台地先端にある野本将軍塚古墳も大きく、荒川を挟んでの埼玉政権と比企政権の対立がうかがわれる。
  • 古代の条里制は現在にも残っている。
  • 古代の利根川・荒川は国境・郡境に名残りがある。香取・氷川社のような古い神社は河川を境界としていることから利根川流路、荒川流路がうかがえ、久伊豆・鷲宮は埼玉郡にのみ鎮座するが、荒川水系の神、利根川水系の神とそれぞれ祭る神が違う。
  • 開墾地の奨励により、武蔵七党などの武士団が各所に形成されていった。
  • 鎌倉、室町時代を通じて、武蔵国の水田開発は飛躍的に増加した。水田耕作のための河川や水路の整備が部分的ではあるが進み、一五世紀後半に蓮田台地が開削されて元荒川流路が作られ、一六世紀後半に熊谷堤、権現堂堤が築造された。戦国時代は土木技術が飛躍的に進歩した。
  • 星川沿いに開墾地が広がっていった。
  • 家康が関東に入国したことから、伊奈氏を中心に本格的な治水・利水事業が開始した。埼玉平野の骨格が次第に形成された。江戸の中心性や安全性を高めること、米の増産につながる水田開発を促す河川や農業用水の整備を一体的かつ継続的に実施していった。
  • 慶長期の荒川五堰・六堰や寛永期の騎西領(新川)用水の完成により星川・忍川・元荒川から古利根川などへの流路が整えられた。
  • 寛永期に、荒川の瀬替え、見沼溜井の造成と見沼用水の整備。綾瀬川流域の整備が進む。
  • 1680年ごろに、武蔵東部低地の利根川用水系が完成した。
  • 宝永元年の大水害により、低地部は泥土に埋まってしまった。1719年に埼玉葛西用水が成立、1728年に見沼代用水が成立、1730年に東京葛西用水が成立し、いずれも延長80キロの大用水系となった。

◎キーワードは、

  • 「荒川新扇状地に整備した六堰が水ネットに果たす役割」
  • 「星川は荒川の伏流水などを集め、利根川水系に入れる重要な川」
  • 「利根川東遷により洪水を遠ざけ、大河川からの安全な取水が可能になった」「見沼用水に代わる見沼代用水の建設」

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